9日、会津若松へ仕事関係の告別式(10:00)に出向き、終了後雪の鶴ヶ城を同行した方と散策。
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会津若松 鶴ヶ城 |
今まで何度も訪れてはいたが今回、歴史的重要な福島県指定重要文化財【茶室 麟閣】に入ってみる。
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少庵ゆかりの茶室 麟閣 |
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茶室 にじり口 |
本来なら苔むす庭園を眺めながら頂く抹茶ですが、豪雪地帯のこの時期故ストーブで温められた小屋で抹茶と薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)を頂く。
抹茶と薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)
そしてこの茶屋はかの有名な【千利休】との関係がある事にも気づく。
ご承知の通り千利休は、豊臣秀吉に切腹を命じられ70歳でこの世を去る。
豊臣秀吉と千利休
秀吉はあらゆる頂点に立ち、出来ないことはないと考える天下人で、唯一嫌い嫉妬の対象としていたのが千利休で、質素で完璧な美学で無駄な装飾を極限まで削ぎ落とし、たどり着いた美の境地に秀吉は許せなかった様で、そんな理不尽な理由を付けて切腹を命じたのですが、実際には切腹をしてほしい訳ではなかったようです。一言謝罪の言葉を述べるだけで許されたとも言われたが、 千利休は自身が秀吉に謝る理由はないと断り、妻に見守られながら切腹をしたのでした。
天正19年2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、蒲生氏郷(がもううじまさ)は利休の茶道が絶えるのを惜しんで利休の子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけるのです。
切腹に値しない千利休の罪
切腹を命じられた千利休ですが、公的に「天下人の嫉妬」という名目で切腹を命じることは出来ず、そこで、秀吉の部下で石田三成は二つの罪を挙げることで、切腹の命令を執行しようと試みたとされています。
1,大徳寺山門の金毛閣に建てられた千利休の木像が不敬であったこと。
2,茶道具を法外な高価で売り、売僧と成り果てていたこと。
この二つは秀吉の嫉妬と誤解でもあったのです。
一つ目のは金毛閣に建てられた千利休の木像は本人が建てた物ではなく、実際は応仁の乱で焼けた寺の再建のために千利休は多額の寄付をしていて、寺がその功を顕彰するために建てたのが千利休の木像だったのです。また千利休が考案した茶室の「にじり口」は、武士も商人も誰もが身分差がなく頭を下げて入る事で茶室では皆が平等を意味していたのです。そして狭くて刀を差したまゝ入れない事にも秀吉は怒りを感じていたようです。
二つ目は千利休には類稀な美的感覚があり、その目利きを選んだ骨董品は誰が見ても分かる確かな物で、市場では価格が上がり茶の湯に憧れを抱く商人達が買い求め、転売に転売を重ね価格が一気に上昇するのです。そして千利休が大切にしていた香合には、秀吉自身が小判千枚の価値をつけて交渉したとも言われています。
香合とは、茶事において茶室に香を焚く時の器。