二十四節季の一つ。陰暦正月節で春の季節の始まり。太陽の視黄経が315度に達するときで、現行暦の2月4日頃にあたります。
立春は冬季が終わる時で季節の変わる節分であるが、暦には立春の前日を節分として記載されています。
節分は季節の変わり目で春夏秋冬の節分があるが、現在では節分といえば立春の前の節分をさしている様です。
立春も過ぎ暖かさと寒さが交互に訪れ、雪解けの合間からは新しい芽吹きも始まっています。
やがて桃の花・梨・リンゴの花が咲きウグイスの鳴き声も聞こえて来るでしょう。
福島は果物王国、中でも梨【萱場梨】は特に有名です。
【萱場梨の話】
その記念碑が仕事の関係で必ず通る所にある。
萱場梨百年祭記念碑 |
福島市内笹木の萱場は、福島県のナシの名産地として知られ、萱場ナシの創設者となったのが鴫原左蔵氏(1838~1916)です。
同氏は萱場の農家の長男として生まれましたが、明治14年、笹木野の荒地の開拓に従事していた頃、野生の山ナシが自生していることから、笹木野の砂れき地にはナシが適していることに気づきました。
その後、当時の庄屋【阿部紀右衛門】氏よりお金を借りて、埼玉県の苗木商から「早生赤」の苗木50本を取り寄せて栽培しました。これが萱場ナシの始まりです。
鴫原氏が萱場ナシの生みの親だとすれば、萱場ナシ育ての親は、【阿部紀右衛門】氏(1882~1966)と言えます。阿部氏は、【阿部紀】の名で県外にも知られた野田の大地主でした。
同氏は明治40年原野を困窮する農家に提供してナシ栽培をすすめ、明治43年には笹木野原梨組合を結成しました。
この組合は、後に法人組合となり、共同出荷を行うまでに発展しました。昭和17年、戦時下のため解散したものの、技術開発と栽培者の組織化、経営合理化に尽くした阿部氏の功績は大きいと言えるでしょう。
今もその屋敷が当時の面影を残し実存しています。
現在の阿部紀宅 |
【ねんぐ(年貢)とは?】
領主が毎年農民から農産物で取り立てた貢租(ぐぜい)。
【農地改革(農地解放)年貢の廃止】
敗戦直後農村における封建的社会制度を打破するために、昭和22年(1947年)~昭和25年(1950年)まで、三年かけて連合軍総司令部の指令で農地改革が行われました。
政府が下記に該当する農地を安い価格で強制的に買い上げ、それまで地主から借りて耕作していた小作人に安く売り渡す制度でした。
1,居住していない不在地主が所有する全ての貸付地。
2,在村地主は、貸付地のうち、内地(北海道を除く)では1町歩(1ヘクタール)
北海道では4町歩(4ヘクタール)までの保有を認め、それ以外の貸付地。
3,小作料の物納(収穫した農産物による支払い)を禁止し、全て金納にする。
これにより全体で198万7千町歩(198万7千ヘクタール)の農地を買い上げ、土地を耕していた小作人に売り渡す。
その結果何百年も続いた小作制度は崩壊し、284万戸から541万戸増加しました。
【日本一の大地主、本間様】
本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に
歌にまで歌われた山形県酒田の本間家は、北前船の船主として財を成し、多角経営者として鶴岡藩の藩主、酒井家をはるかに凌ぐ巨万の富を保持していた。
その本間家も所有していた3千町歩(3千ヘクタール)の土地を失う事になってしまいます。
農地改革により地代の現物収入を失い、没落していった大地主が数多くありました。
都市近郊の小作人の中にはタダ同然の安い価格で購入した土地を、バブルの時期に高騰した価格で売却する事により土地成金になり、億万長者となった人もかなりいました。
【その後の影響】
政治的には成功した政策ではあったが、大規模経営が世界的に主流になる中で、土地の所有者が大幅に増える事になり、機械の稼働能率が低く、先進的な農業の担い手となり得る中核農家が育たなくなってしまった。
昔の日本語には「愚か者」の意味で「たわけもの」と云うのがありますが、それは「田分け者」の意味でした。
狭い農地を細分化すれば農業経営が成り立たず、共倒れになる事を戒めた言葉でした。
現在では国が推し進めて来た【原子力発電事業】も全く同じ事で、農地改革は徳を得した者はおりましたが、今回の事故により徳を得る物(者)は全くありません。
政治家の先生方、自分の事ばかりを考えずに、もっと々おやりになる事があるんじゃないでしょうかネ。
新しいブログ【ふくしま便り】を立ち上げ、福島地域情報を発信して参ります。