2019年1月29日火曜日

元古川商業高校 女子バレーボール部監督 国分秀男氏

             夢を見て
               夢を追いかけ
                      夢を食う
著書
今まで私的な交流は続いていたが、今回、妻も含め仕事上の新年会に宮城県古川から郡山の会場に出席して頂きました。
ミキ グループ大和新年会、一班約600名、二班約500名で二班に出席
彼は同じ福島出身で、学年も同じで約2キロ程離れた町育ち、私は当時の村育ち。
昭和25年、野田村立野田小学校入学時の私
福島唯一の進学高校を卒業後、慶應義塾大学に進まれて教員の資格を得、京浜女子商業高校(現白鵬女子高校)から宮城県古川商業に奉職され、商業科で教鞭を執る傍ら女子バレーボール部を指導し、全国優勝10回の偉業を達成。

高校時代敵対するバレーボール部に所属し、何度も対戦した過去があり、学力は云うまでもなく〝月とスッポン〟だが、バレーボールでは一度も負けたことがなく、インターハイ全国大会・国体・オールジャパン(全日本選手権)と経験させて頂きました。
 
1960年(昭和35年)高校2年生の時、全日本選手権出場(大阪府立体育館)
 各県の代表チームで、社会人・大学生・高校生が対象で高校は2校だけでした。
 
この中にあの有名な世界一の名セッター〝猫田勝敏選手〟や世界一の大砲〝大古誠司選手〟もいた事を後に知る。
 
【猫田 勝敏】
奇策「天井サーブ」を編み出した猫田勝敏選手
1944年広島県安佐郡安子市町(現広島市)に生まれ、小学生の頃からバレーボールを始め、バレーボールの名門・崇徳高校に入学し、名将・稲葉監督の下で本格的にセッターを目指す。
JTサンダースに入部し翌年の1963年に初の全日本入り果たし、1964年東京オリンピックに出場し銅メダルを獲得。後の1972年ミューヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得。
1983年胃の悪性腫瘍のため39才の若さでこの世を去る。
闘病中の言葉に「かあちゃん、すまん」という言葉を残し、幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。
 
           最期の言葉は「後1本....、後1本.....」であったという。
開会式(向かって左に秋田市役所、右に日立茨城)背の小さい私は後ろから二番目

今までに見たこともない大きな体育館に圧倒され、震えながら行進した記憶が蘇って来ますね。
 
その時はこれから先、二度と来ることはなかろうと、体育館正面の大きなボールのモニメント前で記念の写真を大阪に務めていた先輩が撮ってくれました。
 
スリッパ姿は出発前レシーブの練習中、床に転がっていたボールを踏んでしまい、右足を捻挫して腫れ上がり、靴が全く履けず松葉杖をついて、新幹線も未だ無い時代に急行・特急などを乗り継いで10時間以上だったろうか、痛みと疲れに耐えて宿に着いたのを思い出されます。
 
入場式と試合まで少し時間があり痛みも腫れも少し良くなり、入場行進には何とか出ることも出来、試合の途中でも監督の采配で出させて頂きました。
体育間正面で
因みに、その29回大会男子優勝は日本鋼管、準優勝は明治大学。女子優勝は日紡貝塚、準優勝は倉紡倉敷でした。
 
4年後の1964年(昭和39年)、その時の選手達が活躍され東京オリンピックで、男子は銅メダル、女子は東洋の魔女と恐れられて金メダルを獲得。
 
インターハイの全国大会では、後に彼が赴任する古川商業に一回戦で破れた事、小・中学校の7年先輩の妻等々、不思議な巡り合わせの3人です。
2001年、宮城国体
春高バレー2連覇
1999春高バレー優勝
 



監督は試合中タイムを取る権利を与えられ、劣勢を立て直す事が出来る。

日本にも、世界にもサーブ権を取ってタイムを取る監督はいないが、彼はサーブ権を取ったときにタイムを取る。

サーブ権を取られた時しかタイムを取らないかを、逆に質問したいという。

サーブ権を取られてタイムを取ると、ゲームが再開されたとき、敵のサーブから始まり、味方はバレーボールで最も技術的に難しいといわれるサーブレシーブから始まり、相手に指導権を握らせたままゲームが再開するのは得策ではないともいう。

当時は〝9人制〟だったレシーブ屋?(私)には納得出来る策だ・・・・・・詳しくは著書を。

全日本で活躍した【菅山かおる】【結城てり江】等、多くの選手を育て上げたのも、10回の優勝を遂げたのもそんな手腕にあったのか?

バレー部の寮を建てよう!!
1974年、結城を含め5人の新人が入部することになり、故、鎌田茂事務長に保証人になって頂き、地元の銀行に頼んで土地を買い、8畳間5つの部屋と食堂そして小さな風呂場の付いた平屋の木造住宅を建てるのが自分の限度だったとか、長野県塩尻市にある妻の実家が見かねてブドウ畑の一部を売って援助してくれて、結婚3年目、古川にきて2年目の春から選手との共同生活の始まりと聞く。

著書の中で【結城てり江】をスカウトする経緯や、医務室で寝泊まりしていた時代、仕事中、体調を崩して亡くなってしまった見知らぬ若い女性が運ばれ、ロウソク・お線香を絶やさず一夜を明かしたくだりは、彼の実直さを物語る・・・・・・・

全日本で活躍の【菅山かおる】選手



ご縁があって今年の6月に行われるミキのセミナー講師としてご講演を頂く事になっています。

2019年1月7日月曜日

新潟県村上市名産【塩引き】を訪ねて

昨年末、妻とテレビを見ていたら村上の塩引きが報道されていて、顔を見合わせ思わず行って見ようとなった。

以前訪れた際、ホテルの玄関やお店の軒先に干してあり、その【塩引き】の知識は多少あったものの、買って帰る程の興味はなかった。

又、素人が思うには腹の中程を残して、何故喉から肛門まで裂かないのかがとても疑問でした。

その理由は、村上が城下町であった名残で、いわゆる「切腹」を嫌い、一箇所つなげていると言われているようですよ!!
塩引き
そして毎月、2と7のつく日に開催され、約100年の歴史のある【六斎市】が村上の台所として賑わっている事も知り行動を掻き立てた。

6日自宅を出、高速東北道・磐越道を通って村上市へ向かい、予約のホテルチェックインまで時間があり、少し北上し何度も訪れた【笹川流れ】であったが、真冬のこの地は初めてなので途中左手の荒れ狂う日本海を見ながら村上市から約30分で到着。

白波が岩を叩く笹川流れ
雪が横から叩きつける寒さに身を縮め、写真を撮るのが精一杯で直ぐ退散。

波打ち際に建つ【ニューハートピア新潟瀬波】に4時前チェックイン。
ニューハートピア新潟瀬波
正月気分も終わり、宿泊人数も少なく天然温泉で冷え切った身体を癒やし夕食までゆったりと過ごす。

翌日、目的の【六斎市】へ。

場所は村上市役所などが建ち並ぶ通りの約1000㍍を車両通行止めとして早朝から昼頃まで開催されているようだが、今回は正月明けと雪交じりの風が吹き荒れ訪れる人も少なく、10時過ぎだったが店じまいを始めているところだった。
早めの店じまい
寒そうに片付けをしている同じ場所で50年も続けて居られる塩引き専門の出店で話し込み、お勧めの塩引きを購入し、三枚におろして切り身してもらう。

妻がいつも何かのためにと持ち歩いている手土産を、ご主人と奥様に差し上げて来年も必ず来ることを約束。
鮮やかな手つきで
店じまいして出店が少なくなった通りを散策し、何処のホテルや旅館に張ってある『吉永 小百合さんと【千年鮭きっかわ】の軒先で撮られた(大人の休日倶楽部)』ポスターの場所を訪ねる。
大人の休日倶楽部ポスター
鮭の暖簾が風で激しく靡く【千年鮭 きっかわ】
千年鮭きっかわ
何故かその脇にナンバーの付いていないロンドンタクシーが。
ロンドンタクシー
塩引きと荒巻の違い
「新巻(アラマキ)」の語源はかって塩蔵のサケを保存したり、運ぶ際、荒縄、菰等で包んだり、吊るしたりしたので「稲巻」「わら巻き」がいつのまにか「アラマキ」と呼ばれる様になったと言われてり、古くは秋サケの塩蔵を指し、お歳暮用のサケの代名詞として広く使われていました。
塩引きとは鱗に逆らって、その間に塩をすり込む動作から名づけられたとしていて、塩引きという言葉は、約1000年前に「楚割(そわり)鮭」という名で記録され、戦国時代には正月料理のひとつになっている。

青砥 武平治
約300年前の江戸時代の中頃、鮭が貴重な財源だった越後村上藩では、乱獲により鮭が枯渇。藩主からなんとかせよ、という使命を帯びた武平治は、鮭の母川回帰性(生まれた川に戻ってくる習性)に着目。現在の村上市の三面川(みおもてがわ)に種川というバイパスを造成し鮭を誘導、鮭が産卵するまでは禁漁し、卵を産んだ後の鮭のみを捕獲する「種川の制」という鮭の自然ふ化増殖システムを考案。つまり川に戻ってきた鮭をすぐに獲るのではなく、より計画的かつ効率的に鮭を増やしながら獲る仕組みを作りました。
その結果、200両程度だった村上藩の鮭の収入は約5倍に向上。見事藩の収益アップに貢献しました。


今年は今のところ雪が少なく助かりますと地元の方は云う。

帰りは雪の多い山間部の一般道路、国道290号、関川→越後大島→JR米坂線沿いの国道113号、小国町→国道13号、山形県米沢市→福島でした。

2019年1月2日水曜日

年末の大雪と初日の出

ここ、栃木県さくら市の【紫塚ゴルフ倶楽部】で初日の出を迎えるのが8回目、その前は各地の宿泊の出来るゴルフ場に3~4回と、約12回の年末・年始は外で過ごしている事になる。

昨年12月28日・29日は大雪に見舞われ、出掛ける日の30日は雪の中から車を掘り出して?。
28日の積雪(一端完全に雪下ろし)

29日再び積雪
思ってもいない二日連続自宅の雪かきも何とか終え、午前10時に自宅を出て例の如く一般道路をのんびり走り約20分、隣の二本松市辺りで全く積雪はなくなっていてビックリ。

毎年この時期は車の数も少なく、何時も立ち寄る大きな【白河だるま】目印のラーメン店で昼食。
辛み味噌ラーメン
経営者が変わったのか、何時もの物と麺も味も変わっていた。

再び、国道4号線を走り続けると高速道路の影響なのか、年毎にさびれた店舗が増えていていた。

午後4時過ぎスタフの方達の出迎えを頂き到着。
ロビー正面に
天然掛け流し温泉にゆっくり浸かり夕食を待つ。

妻は熱燗、飲めない私はノンアルコールで一年の労を労い乾杯、次々と運ばれる年末特別料理【色彩御膳】を堪能。
前菜

特性茶碗蒸し


初穂


 デザートの後、恒例のガラポンの福引きで妻はお酒・私はゴルフボールをゲット。

大晦日、福島とは打ってかわって無風状態の好天に恵まれ、9:52分スタート。
倶楽部ハウスレストランからの葛城コース上がりホール
程よく汗ばみ入浴後、部屋で年末のテレビを見ながら夕食を待つ。

大晦日は【祝い膳】
前菜

伊勢エビ舟盛り

 今夜もガラポンの福引きがあり、昨夜と全く逆の私がお酒で妻はゴルフボール。
 
持ち帰り高級すき焼きセット、高級しゃぶしゃぶセットなどがあったが残念。
 
最近の紅白歌合戦番組にはあまり興味もなくなり、妻は居眠りをしながらもテレビを見入っていたが、私は思いっきり寝納めに。
 
元日 
山間から登る初日に手を合わせ、今年一年の無事を祈る。
初日の出

スタートホールで危ないスタイルの若いスタッフによる餅搗きが始まり、来場者全員に餡・きなこ餅が振る舞われた。
危ないスタイルの餅搗き
これが安全なスタイル(ネット画像より)
安全なスタイル
バイキングスタイルの朝食は伊勢エビ・きんとん・鯛のお刺身・伊達巻き等など正月料理が豪華に並べられ、スタッフもキビキビを動き廻り世話をしてくれて最高の気分で新年を迎える事が出来た。
鯛コーナー

伊勢エビコーナー

9回目の年末・年始予約を入れて家路に。