夢を追いかけ
夢を食う
著書 |
ミキ グループ大和新年会、一班約600名、二班約500名で二班に出席 |
昭和25年、野田村立野田小学校入学時の私 |
高校時代敵対するバレーボール部に所属し、何度も対戦した過去があり、学力は云うまでもなく〝月とスッポン〟だが、バレーボールでは一度も負けたことがなく、インターハイ全国大会・国体・オールジャパン(全日本選手権)と経験させて頂きました。
1960年(昭和35年)高校2年生の時、全日本選手権出場(大阪府立体育館) |
各県の代表チームで、社会人・大学生・高校生が対象で高校は2校だけでした。
この中にあの有名な世界一の名セッター〝猫田勝敏選手〟や世界一の大砲〝大古誠司選手〟もいた事を後に知る。
【猫田 勝敏】
奇策「天井サーブ」を編み出した猫田勝敏選手 |
1944年広島県安佐郡安子市町(現広島市)に生まれ、小学生の頃からバレーボールを始め、バレーボールの名門・崇徳高校に入学し、名将・稲葉監督の下で本格的にセッターを目指す。
JTサンダースに入部し翌年の1963年に初の全日本入り果たし、1964年東京オリンピックに出場し銅メダルを獲得。後の1972年ミューヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得。
1983年胃の悪性腫瘍のため39才の若さでこの世を去る。
闘病中の言葉に「かあちゃん、すまん」という言葉を残し、幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。
最期の言葉は「後1本....、後1本.....」であったという。
開会式(向かって左に秋田市役所、右に日立茨城)背の小さい私は後ろから二番目 |
今までに見たこともない大きな体育館に圧倒され、震えながら行進した記憶が蘇って来ますね。
その時はこれから先、二度と来ることはなかろうと、体育館正面の大きなボールのモニメント前で記念の写真を大阪に務めていた先輩が撮ってくれました。
スリッパ姿は出発前レシーブの練習中、床に転がっていたボールを踏んでしまい、右足を捻挫して腫れ上がり、靴が全く履けず松葉杖をついて、新幹線も未だ無い時代に急行・特急などを乗り継いで10時間以上だったろうか、痛みと疲れに耐えて宿に着いたのを思い出されます。
入場式と試合まで少し時間があり痛みも腫れも少し良くなり、入場行進には何とか出ることも出来、試合の途中でも監督の采配で出させて頂きました。
体育間正面で |
因みに、その29回大会男子優勝は日本鋼管、準優勝は明治大学。女子優勝は日紡貝塚、準優勝は倉紡倉敷でした。
4年後の1964年(昭和39年)、その時の選手達が活躍され東京オリンピックで、男子は銅メダル、女子は東洋の魔女と恐れられて金メダルを獲得。
インターハイの全国大会では、後に彼が赴任する古川商業に一回戦で破れた事、小・中学校の7年先輩の妻等々、不思議な巡り合わせの3人です。
2001年、宮城国体 |
春高バレー2連覇 |
1999春高バレー優勝 |
監督は試合中タイムを取る権利を与えられ、劣勢を立て直す事が出来る。
日本にも、世界にもサーブ権を取ってタイムを取る監督はいないが、彼はサーブ権を取ったときにタイムを取る。
サーブ権を取られた時しかタイムを取らないかを、逆に質問したいという。
サーブ権を取られてタイムを取ると、ゲームが再開されたとき、敵のサーブから始まり、味方はバレーボールで最も技術的に難しいといわれるサーブレシーブから始まり、相手に指導権を握らせたままゲームが再開するのは得策ではないともいう。
当時は〝9人制〟だったレシーブ屋?(私)には納得出来る策だ・・・・・・詳しくは著書を。
全日本で活躍した【菅山かおる】【結城てり江】等、多くの選手を育て上げたのも、10回の優勝を遂げたのもそんな手腕にあったのか?
バレー部の寮を建てよう!!
1974年、結城を含め5人の新人が入部することになり、故、鎌田茂事務長に保証人になって頂き、地元の銀行に頼んで土地を買い、8畳間5つの部屋と食堂そして小さな風呂場の付いた平屋の木造住宅を建てるのが自分の限度だったとか、長野県塩尻市にある妻の実家が見かねてブドウ畑の一部を売って援助してくれて、結婚3年目、古川にきて2年目の春から選手との共同生活の始まりと聞く。
著書の中で【結城てり江】をスカウトする経緯や、医務室で寝泊まりしていた時代、仕事中、体調を崩して亡くなってしまった見知らぬ若い女性が運ばれ、ロウソク・お線香を絶やさず一夜を明かしたくだりは、彼の実直さを物語る・・・・・・・
全日本で活躍の【菅山かおる】選手
ご縁があって今年の6月に行われるミキのセミナー講師としてご講演を頂く事になっています。